母も最初から、「母」や「主婦」ではありません
母も父と生活を共にしたとき、
何を考えて、生活費の基盤を考えたのでしょう
調理が多少出来たら、低価格で食材を
買うことも出来たかもしれません。
しかし、誰に聞くにしても、料理本を見本に
したと思います。
か、家計簿を付けることで
食費の上がり下がりが目に見えてくるため
店選びの基準となったと思います。
肉、魚、玉子屋、(私が幼稚園の時は商店街にて店がありました)、お菓子屋も、この店と決まったみせがありました。
駄菓子と桜餅のような売り方。
ガラスケースを縦に開けると、和菓子が売っている店で流行りのお菓子は無かったですか、
体に良いお菓子を買ってました。
小さい頃は喘息気味、中耳炎、泣き腫らしたような目になったりしていたので
食べ物には母は気をつけていましたね。
だもんで、私も体に悪そうな色の食べ物、
臭いのキツいものは嫌いです。
母も最初から母ではなく、病院の先生に泣きついてました。たべもの、普段持つものも、
気にして、聞いて、気にして聞いての
繰り返しでした。
中耳炎は幼稚園の時はしょっちゅうなってました。考えすぎるとデコに縦に赤い印が今もでます。
脳関係、神経科、血管関係は精密検査を
受けたことがあると母から良く聞かされてました。耳には良く、綿が挟まれているため
聞こえにくい状態でした。
小さい頃は喘息で走るとゼイゼイのどが
なっていたようです。だもんで、走り回りたいのを止めさせるのは大変だったと。
今は、それさえも忘れてます✨
子供の頃は楽しかったなぁ。
母の手作りの夏のセーターを着たりしましたもん。キレイな青のセーター。暑いんですが、
他にはない宝物でしたもの。回りの人に
見せびらかすのが楽しみでしたね😁